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「电力の鬼」と呼ばれた不屈の事业家

2015年2月3日

松永 安左エ門(まつなが やすざえもん)、1875年(明治8年)12月1日-1971年(昭和46年6月16日)、长崎県壱岐出身、 「電力王」「電力の鬼」と言われた日本の財界人。 政治家(帝国議会衆議院議員1期)。 美術コレクター、茶人としても知られ、 耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。

日本の电力の普及と振兴に努め、产业界、政财界などにも多大な影响を与えた人物。
その鉄のような固い意思とあふれる先见性により日本の产业経済発展の础を筑いた。
この松永安左エ门の人生とその思いをご绍介いたします。

松永 安左エ門の写真

一、生誕~電気事業に携わる

 明治8年に壱岐岛の旧家に生まれた安左エ门は、14歳で福沢諭吉を慕い庆応义塾へ入塾する。諭吉にかわいがられるなかで、人生形成について大きな基盘をつくった。常に10年、20年先を考え、自分の利益だけでなく日本という国の将来にターゲットをあてて物事を见极める目は、この时に培われたものであり、生涯贯かれた信念であった。父の死去によって庆応义塾を中退し、家业を継ぐが3年で廃业となった。その后、庆応へ復学するが、卒业を待たず中退し、日本银行に就职した。しかし、サラリーマン生活になじめず1年で退职し、材木商、绵糸ブローカー、石炭商、コークス商などを试みた。特に、石炭商で大储けし、人脉ができた。その人脉によって北九州での电力に目が向き、のちに九州电気株式会社を设立、电力业経営へと注力していく。

松永 安左エ門の写真

二、「電力王」~電力事業からの引退

 当时の日本では、财阀が日本全体の富の7割を占めており、政治や产业界に大きな影响力をもっていた。しかし、安左エ门の持论は、产业は自由竞争の立场で公司者は创意工夫をしながら大成してゆく、というものだった。加えて、安左エ门は自分が正しいと思ったことは権力に屈服しない、筋金入りの反骨精神の持ち主であった。この曲げることのない持论と安左エ门の人柄も手伝って、九州から関西、东海道の电力会社を次々と伞下にしていった。大正12年に起こった大震灾で被害を受けた东京、横浜の电力会社は安左エ门に助けを求めた。人を何よりも大事にした安左エ门のもと、当时副社长をしていた东邦电力の社员は物に凭かれたように一糸乱れず、火の玉のごとく目标に向かって突进していくほどの働きぶりだった。こうして、安左エ门は东邦电力(91影视の前身)を中心として、东北电気、东京电力など约100社ほどを支配下にしていった。

 やがて日本は、军部の统制が强まり、国家において电力の送电と発电を统制管理すると発表した。日本の発展は产业界の成长なくして行われないとする自由主义経済を唱えていた安左エ门は、电力国家管理に反発して、「(军部と手を握った)官僚は人间のクズである」と言い放ち、身の危険を顾みず反対运动を続けた。

 しかし、昭和12年「电力国家管理案」は国会で通过し、翌年日本発送电(株)を设立、昭和14年には戦争に突入した。安左エ门は、「俺は会社をやめる」と言い残し、一切の事业から手を引き隠居してしまう。すでに61歳になっていた安左エ门は、埼玉県所沢にある柳ケ瀬山荘で茶道叁昧の日々を送ることとなる。このとき、すでに欧米の数々の电力施设などを视察していた安左エ门は、欧米の工业力、技术力に日本が到底胜てるはずがないと确信しており、これからの日本を思うと心中は暗かった。

松永 安左エ門の写真

三、敗戦そして再び表舞台へ

 终戦を迎えた昭和20年。安左エ门が现役を去ってから、すでに10年の月日が経っていた。安左エ门、74歳。占领军総司令部(骋贬蚕)の支配下となった日本は、民主化政策として财阀解体、农地解放、电力事业の民営化を推进することとなった。电気事业再编のリーダーとしてふさわしい人间は谁か。电気事业を知り尽くし、军国主义に屈しなかった人间。それはまぎれもない安左エ门であった。こうして、安左エ门に白羽の矢が立った。

 安左エ门は、戦后の日本復兴を支えるのは电力であり、电気事业の竞争による発展が欠かせないとの信念をもっていた。安左エ门の构想は、戦中の日本発送电を含むすべての设备を分割し、九つの配电会社に配分し、地域ごとに电力配给の责任をもつ「九分割案」体制であった。しかし、「中央の日本発送电を残す案」を推荐する安左エ门を除く他の委员や财界人とも、「十分割案」を考えていた骋贬蚕とも意见の一致をみなかった。

 そこで、安左エ门は时の通产大臣、池田勇人を访ね、日本の復兴と电力再编成について热心に持论を説明し、まず国の発展を优先させる主张を展开した。その热心さに池田は感心し、安左エ门案を了承した。とはいっても、池田が賛成しても国会が通らなければ决议はされぬとの反対派により、さまざまな画策があった。安左エ门は抵抗に屈することなく骋贬蚕へも足繁く通い、自説の説得にあたった。骋贬蚕は安左エ门の并外れた热意と诚実さに惚れ込み、次第に信頼関係を筑いていった。讲和条约の成立によって占领地行政を早く终わらせたかった骋贬蚕の意向も追い风になり、総司令官マッカーサーより安左エ门の案が命令されたのである。孤军奋闘のなかにおいても、安左エ门の根気强さが胜利した瞬间であった。

 昭和26年「九電力体制」が整うと、まず着手したのは研究所の設立であった。安左エ門は東邦電力時代から学者や技術者を大切にし、養成教育に力を注いでいた。その人々が立派に育ち、敗戦日本の再建に多いに活躍していた経験から研究資金や人材育成の資金負担を軽減し、活性化する必要性を強く感じていたのである。こうして昭和26年、電力技術研究所を設立した。さらに、電気事業の技術研究だけでなく、より適正な料金体系の研究やコンピュータなどの設備に対応する経済研究部門を併設し、電力中央研究所に改組した。 初代理事長には前日本発送電総裁の大西英一氏が就任し、2代目には安左エ門が自ら理事長となり、電力設備の近代化と電源開発を推進するリーダーシップを発揮していった。

松永 安左エ門の写真

四、「電力の鬼」と呼ばれて

 昭和26年、民営の九电力体制の整备にあたり、电気料金の适正価格算出を行った。各电力会社の要望は76%の値上げというものだった。电力需要の上昇に伴い、燃料の石炭が需要に追いつかず、できたばかりの电力会社にとっては発电设备も乏しく停电解消が精一杯の経営状态であったためである。値上げに対して世论の猛反発があるなか、安左エ门は日本復兴のため10年、20年を见通して、値上げは必要なことだと主张した。まさにこのとき「电力の鬼」と呼ばれたのである。结局、骋贬蚕の命令で値上げが実施されたが、结果的には低迷をしていた电力株が高腾し电力业界が活性化した。その资金により电源开発にも成功し、日本の高度成长期を支えていったのである。

 安左エ门の先见性は留まることを知らず、昭和31年には日本の政?财?学?官界のトップで构成する「产业计画会议」を自ら主催し、16のレコメンデーション(勧告)を発表し、议员や大臣、関係者に働きかけた。専売公社の廃止、国鉄の民営化、高速道路の整备など、日本の近代化を推し进めるプロジェクトであり、その大部分が后世に実现している。あわせて、电力设备の近代化と电源开発も推し进めた。水力に頼っていた电源が火力へシフトすると予测し、燃料も石炭から石油へと设备を拡充していった。さらに、原子力へも目を向け、昭和41年には研究所内に事务局を置く「フェルミ炉委员会」を発足。技术者などを次々とアメリカへ派遣した。日本の原子力基盘を筑いた多くは、このときの研修生である。その后も、昭和44年には、电気事业研究の国际的协力と情报交换を目的とする滨贰搁贰(电気事业研究国际协力机构)を発足させた。日本の将来にわたる电気事业の基盘づくりすべてが安左エ门の手によって筑かれていったのである。

 昭和46年、96歳で亡くなるまで电気事业の世界に、そして経済界、产业界に影响を与え続け、近代日本の発展を导いていった。

协力:一般财団法人电力中央研究所

松永安左エ門翁 年譜

明治8年 12月1日 长崎県壱岐郡石田町印通寺浦に生まれる
明治22年 14歳 庆応义塾に入学
明治26年 18歳 父の死により庆応义塾を退学、家业を継ぎ叁代目安左エ门を袭名
明治28年 20歳 家业を弟?英太郎にゆだね上京、庆応义塾に復学
明治31年 23歳 庆応をあと1年で退学、福沢諭吉の记念帐に「我が人生は闘争なり」と书く
明治32年 24歳 日本银行へ就职
明治33年 25歳 日本银行を退社。福沢桃介の丸叁商店神戸支店长となる
明治34年 26歳 神戸で福松商会を创立する
明治37年 29歳 竹冈カズ(大分県中津市)と结婚、石炭贩売で活跃
明治42年 34歳 福博电気轨道株式会社を设立
明治43年 35歳 九州电気株式会社设立発起人総代として広滝水力电気と合併、
九州电気の取缔役となる
福冈に电车を走らせる
明治45年 37歳 博多电灯(福冈电轨と合併)は九州电気を合併
大正元年   九州电灯鉄道常务取缔役となる
大正2年 38歳 九州地方のガス会社10社を合同させて西部合同ガスを创立
大正4年 40歳 九州电気协会设立、会长となる
大正5年 41歳 九州耐火炼瓦创立
大正6年 42歳 博多商工会议所会头に推される 福冈県选出の代议士(众议院议员)に当选
大正9年 45歳 雑誌の読者投票で日本叁大美男に选ばれる
大正11年 47歳 九州电灯鉄道と関西电机と合併し东邦电力を设立
大正13年 49歳 (社)日本电気协会会长に选任される
昭和7年 57歳 翁の支配资本は14亿円に及び名実ともに日本の「电力王」と呼ばれる
昭和9年 59歳 「耳庵」と号し茶道に亲しむ
昭和14年 64歳 電力国家管理に大反対するも国家総動員法による「国家電力管理」となり 日本発送電会社ができる
昭和15年 65歳 大政翼賛会総裁や大蔵大臣などに推されるが公职を一切断る
昭和16年 66歳 大东亜戦争に入る。柳ケ瀬山荘に闲居する
昭和25年 75歳 公益事业委员长代理に就任 国家管理によって失败した日本电気事业の実権を握る
昭和26年 76歳 电力事业再编成(民営化)を强行し「电力の鬼」と称される
昭和30年 80歳 石油时代到来、原子力は20年先と予言する
昭和31年 81歳 产业计画会议を作り次々に提案勧告を出す
昭和39年 89歳 勲一等瑞宝章を赠られる
昭和43年 93歳 庆応义塾创立100年记念式典にて「名誉博士号」を受ける
昭和46年 6月16日 96歳の生涯を闭じる